財務委員長
L.菊池賢
2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災から12年。干支が、もう一回りしてしまった。今年も3月11日がやって来ました。
齋藤永光ライオンと事務局伊藤さんと私、北上国見LCの小原会長、佐藤前会長、及川六郎ライオンの6名、2台の車で一緒に陸中山田LCを目指した。
山田についてからLC の事務所へ行く前に3クラブの絆を大切にして植樹された「海と鯨の科学館」前の船越公園の桜の状況を確認しに行った。山田の小原会長も来てくれていた。
当時植えられた桜の苗木は、大きく成長し既に花をつけるようになった桜もあるそうだが、潮の害で所々枯れてしまった桜も見受けられた。枯れたところには、今年4月29日にまた江釣子、北上国見、陸中山田の3クラブで、今度は年数の経った大きく育てられた苗木をまた新たに植樹する計画とのことだ。あと数年経てば、あの広大な公園は三陸の桜の名所になるだろうと強く思った。
そのあと、陸中山田LC事務所へ行き多くの皆さんの出迎えを受けた。震災時の様々なお話を伺った。
その中で、防災の意識は、毎日の習慣との話を聞いた。子供のころから、昭和8年の大津波を経験したおじいさんが、寝る時には、毎日枕元の同じ所へ同じように衣類をきちんと畳み、順番にどこになにがあるか分かるようにしておきなさい。停電で暗くて見えなくても着られるようにしなさい。もし着替える暇がなかったらそのまま持って逃げられるようにしなさい。地震が来たらまず、入口のドアを開けなさい。津波警報が来たら、毎回裏山の高台に逃げ、解除後家に戻ってからもまた津波警報があったらまた直ぐ裏山へ走って逃げていた。昼でも夜でも、どこにいても、皆てんでに裏山に逃げることが習慣化していた。等の話を聞いた。なるほどとても大事な話だと大きくうなずけた。
陸中山田ライオンズクラブの事務所のすぐそばから、10数m垂直にそびえ立ち、ずうっと立ち並ぶ長い防潮堤の階段を上り下りし岸壁まで向かう、海へ菊の花を手向け14時46分サイレンと共に黙とう。皆で海に向かって静に手を合わせた。まだまだ多くの方々が行方不明のままである。山田町だけでも800人を超える方が犠牲となられた。お亡くなりになられた方々のご冥福を祈り、地震、津波の多くの教訓をかみしめ、「防災」が、「忘災」にならないように語り継いでいかなければ・・・。
山田の道の駅で、「どんこ」と「自然薯」など、買い物をして帰路に就いた。